1.山上の説教
時は1世紀、イスラエル北部のガリラヤにおいて、救い主イエスは公生涯に入られました。
ガリラヤ全域を巡って会堂で教え、神の国の福音を宣べ伝え、人々の病を神の力で癒された
イエスのもとに、大群衆が集うようになりました。
マタイの福音書5章1節「その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされる
と、みもとに弟子たちが来た。」
山と言っても、日本人が想像するような「登山しなければならない山」ではなく、いわば
「丘」にイエスは登られました。ガリラヤ湖近くの丘はイエスがご自分のもとに集った大勢
の人々を見渡し、地形を生かして声を広範囲に行き届かせることができる自然の音響設備だ
ったのです。当時、ユダヤ人の律法(旧約聖書の神の掟)の教師が人々に教えを語る時には、
決まって腰を下ろして座って教えるのが習慣でした。イエスが丘の上で腰を下ろされると、
人々は「お、これからイエス様がお語りになるのか」と受け取ったのでしょう。群衆の中か
ら、一歩前に出てイエスに近づいた人々がいました。それが「弟子たち」と呼ばれる人々で
した。「群衆」と「弟子」との違いは何だったのでしょうか。「群衆」は様々な思いでイエ
スのもとに集ってきた人々であり、中には興味本位やご利益目的の人もいたはずであり、た
とえイエスを慕い尊敬していたとしても、イエスを「主(従うべきお方)」としてついて行く
決心まではしていない人々です。それに対して「弟子」とは、たとえ弱い意志であったとし
ても、たとえイエスのことを十分に理解していなかったとしても、イエスを「主」としてつ
いて行く決心をした人々を指しているのです。
2節「そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。」
これからイエスが語られる「山上の説教」(マタイの福音書5章~7章)は、彼ら(弟子たち)
に向けて語られます。イエスを自分の人生の主と決めた人々が、どのような価値観を持って
生きるべきかを明確に示されるのです。しかしそれと同時に、丘の上から語られるこのメッ
セージは、前に出ている弟子たちだけでなく、その周りに群がっている群衆にも聞こえるよ
うに語られます(マタイの福音書7章28節)。それはあたかも、クリスチャンとしての生き
方に人々を招いているかのようです。
2.心の貧しい者
山上の説教の冒頭は、3節~10節に描かれている8つの「幸いな人」の教えです。古代
でも現代でも、人は「幸せになりたい」という願いのもとで生きています。国際連合の持続
可能開発ソリューションネットワークが発行する「世界の幸福度調査レポート」では、日本
は60位周辺と大変低い順位にあり、多くの人々が幸せを感じていないようです。国際機関
は経済状況、政治的自由と平等、福祉の整備度、健康寿命、教育水準などの要素と国民の幸
福度を関連付けて分析していますが、そう単純なものではないのは、バブル景気頃の日本で
も不満や不幸を感じていた人々が沢山いたことからも分かります。そんなこの世の群衆に対
して、そして私たちクリスチャンに対して、イエスは「真に幸いな人とは誰か」を告げてお
られます。
3節「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」
日本人が「心の貧しい者」と聞くと、「心の狭い人、卑しい人」をイメージするかもしれ
ませんが、ユダヤ人にとってはそのような意味ではありませんでした。それは「自信」や「高
慢」とは正反対の心の状態を指します。これには色々な裏付けがあるでしょう。「自分はお
金が余裕がある」「自分のすぐそばに頼りになる人たちがいる」「自分には生きていくのに
十分な能力と実績がある」「自分の容姿や性格は多くの人々に愛されている」「自分の人生
は人に誇れるものだ」など、自分のうちに拠って立つ根拠がある人は、無意識にも「自分の
心は裕福だ」と自負しているでしょうし、周りの人間もそのように見るでしょう。「心の貧
しい人」とは、それとは正反対の状態です。特に宗教心に篤いユダヤ人たちの間では、「自
分は神の掟を守っている」「神の前に正しく生きている」と自負している人こそが、「最も
心が裕福な人」なのです。それに対する「心の貧しい人」とは、「自分は神の掟など守れて
いない、堂々と神の前に出ることなどできない、恥ずかしくも惨めな罪人だ」とうなだれて
いる人です(ルカの福音書18章9節~14節)。
この世の基準からしたら、「心の裕福な者」と「心の貧しい者」のどちらが幸いでしょう
か。前者であるのは言うまでもありません。しかしイエスは明言されます。「心の貧しい者
は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」
3.不幸から幸いへ
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」とありますが、な
ぜ、心の貧しい者が、天の御国に入るのでしょうか。心の貧しい人ほど、目の前にイエスが
現れたのならば(イエスについて聞かされたのならば)、何の抵抗もなく、素直にイエスにす
がり、イエスを主と受け入れるからです。そして、永遠のいのちを受けるべく天の御国(神の
国)に入れられるのです。しかも将来天国に入る約束だけではありません。地上で生きていな
がらも神の支配を受け、その心で神の愛を体験し、神がともにおられる平安を感じ、永遠の
いのちへの希望に満ち、船の錨のような確かな「喜びの根拠」が心の奥にどっしりと下ろさ
れるのです。
この世で自分自身に満足している人は、イエスのもとに来る必要を感じません。反対に、
この世界で失敗し、傷つき、この世にも、人間にも、自分自身にも失望し、心の支えとなる
ものがない、自分のうちに拠って立つ者が何もない人こそが、実はイエスに最も近づいてい
る人だというのです。この驚くべき逆転が、神の国の原理なのです。
4節「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」
この世界には様々な悲しみで涙している人が大勢います。夢に敗れた悲しみ、期待や信頼
を裏切られた時の悲しみ、大切な人が自分から離れた悲しみ、そして愛する人と死別する悲
しみ。特に聖書で表現される人類不変の深い悲しみとは、「罪に満ちる世がどうしようもな
く理不尽であり、繰り返される人間の愚行と悲惨な有り様に対する悲しみ」、そして「自分
自身こそがどうしようもない惨めな罪人であることに気づいた悲しみ」です(ローマ人への手
紙7章24節)。悲しみそのものは、人間にとって避けるべきものにほかなりません。しかし、
その悲しみを通して、悲しみをきっかけとしてイエス・キリストへと心が向けられるように
なるのならばどうでしょうか。イエスにこそ、永遠のいのちの希望があります。人から裏切
られても、イエスだけは決して私たちを裏切りません。イエスが時の流れの中で過去の痛み
の出来事の意味を教え、それを未来の益としてくださいます。何よりも、永遠の天国では、
もはや一切の悲しみはないのです(ヨハネの黙示録21章4節)。イエス・キリストにこそ、
あらゆる悲しみに対する慰めが満ちておられます。悲しみが人をイエスへと近づけるのです。
5節「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」
人の世はいつでも、力ある者がより多くを得ようと手を広げる弱肉強食の世界です。現代
は教育水準や道徳観念が確立しているので表向きは弱者が守られているように見ますが、そ
の本質は古代と変わりません。子ども同士でも力関係はあり、穏やかで自己主張しない(他人
に譲る)子に対して、気が強く自己中心な子はグイグイと要求を通してきます。それは大人の
人間関係でも同じであり、もっと大きな視点では、組織対組織、国対国でも同じ構図になっ
ています。古代中東世界では、柔和な者は損な役に追いやられ、自分の土地や権利を横柄な
者、強気な者、強欲な者たちに奪われてしまうことがありました(創世記26章17節~22
節 イサクの例)。この世の損得勘定だけで言うならば、柔和な者は不利なのかもしれませ
ん。しかし、この弱肉強食の世にあって、自分の弱さを認めるがゆえに、ただイエスにのみ
より頼み、自分の権利・取り分・利益の全てをイエスにゆだねるようになるのならば、力関
係からは解放されます。柔和な者は一時的には横柄な者に土地を奪われることがあっても、
主権者であられるイエスが最後には正しく裁いてくださり、後には「地を受け継ぐ」のです。
もちろん地上だけではない、天国にはもっと広くて輝かしい相続地が用意されているのです。
6節「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」
「義」とは、「神の正しさ」を意味します。「義に飢え渇く」のですから、当然「自分の
うちには義はない」と自覚している人が飢え渇いているのです。「きよい心を持ちたいのに、
自分の心が汚れているのを感じる」「罪を犯さないように生きたいのに、それができない」
「正しい行いをして人々を幸せにしたいのに、現実はそれとはかけ離れている」といったも
どかしさや嘆きの中で、自分の内には本当の意味での「正しさ」はないことを自覚し、むし
ろ義ではなく「悪(自己中心と罪の根)」があることに気づいている人です(ローマ人への手紙
7章15節~21節)。たとえ気づいていたとしても、「仕方がないよ。人間とは所詮罪人な
のだから」「きよく生きるなんて無理だよ」「世の中ではほとんどの人がそんなことを気に
していないよ」と割り切ってしまう人が大半でしょう。しかしそれでも、「義に飢え渇き続
ける人」は幸いです。イエス・キリストの十字架の意味を理解することができるからです。
自分の罪をどうすることもできない私たちに代わり、私たちの全ての罪を引き受け、イエス
が十字架でいのちを捨ててくださったからです。
「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よ
みがえられました。」 (ローマ人への手紙4章25節)
4.幸いな生き方
これまでの4つの幸いな人(心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者)は、世
ではマイナスと思える境遇や心境こそが、むしろイエスへと結ばれる恵みの入り口にあるこ
とを教えています。そしてイエスに結ばれたクリスチャンは、より積極的に、さらなる幸い
を求めて生きるようになります。その姿が、次の4つの「幸いな人」に描かれています。
7節「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」
イエスによって罪赦され、永遠のいのちが与えられ、人生のどん底から助け出された人が、
今度はかつての自分のように苦しみもがいている人に目を向けるようになるのはごく自然な
ことです。そのあわれみは、自分に助けを求める人に対してだけ向けられるのではありませ
ん。神を無視して歩んでいる人々、平気で罪を犯している人々に対しても上から目線で裁く
のではなく、「彼らは羊飼いのいない羊なのだ」という「とりなしの思い」を抱くようにな
ります。たとえ悪意をもって自分を攻撃する者に対してすらも、「あの人は何をしているの
か自分で分からないのだ」というあわれみを抱くのです(ルカの福音書23章34節 十字架
のイエスの祈り)。他人をあわれんだ者への報いを、神は豊かに注がれます。
8節「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」
イエスの十字架によって義と認められた者は、その心がきよめられることをひたすらに求
めます。本当の意味で私たちの内から罪がなくなり、完全にきよい状態になるのは永遠の天
国に入ってからです(ヨハネの手紙第一3章2節~3節)。しかし、そのきよさに憧れ、祈り
においても実生活でもきよさを追い求める者は、神を見る(見るようによく分かる、理解する、
顔と顔を合わせるかのように深い交わりを持つ)ようになるのです。人生に起こるあらゆる出
来事や境遇(不本意なことも含めて)にも、その背後に神を見るようになるのです。信仰生活
を送ることに、いよいよ幸せを感じるようになります。
9節「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」
平和こそ神の願いです。神はまず、世の罪人たちと和解したいと願っておられます。私た
ちは人々を、神のもとへと導く平和の使者なのです(コリント人への手紙第二5章20節)。
そしてそれと同じくらい神が願っておられるのが、人と人との和解と平和です。人と人が裁
き合い、憎み合い、傷つけ合っている姿を見て、神は深く悲しみ涙しておられます。身近な
人間関係から、国同士の争いに至るまで、私たちは目を見開いて現実を直視し、和解と平和
のために祈り、どんなにささやかでも「自分のできること」を奉仕としてささげるのです。
10節「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからで
す。」
ここに、この地上にあっての「最も驚くべき幸い」、しかもそれは人間の常識からするな
らば「究極の逆転」が語られています。この世で「義(神の正しさ)」を求めて実行している
だけなのに、何も悪いことをしていないのに理不尽にも迫害を受けるならば、それこそ幸い
だとイエスが告げておられるのです。
5.価値観の逆転
イエスは具体的に分かるように、さらにお続けになります。
11節「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を
浴びせるとき、あなたがたは幸いです。」
神の義が最も目に見える形で表されたのが、イエス・キリストです。闇の世は光であるイ
エスを憎み、拒絶反応を起こしました。
「世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさ
い。・・・・人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。」
(ヨハネの福音書15章18節、20節)
イエスを信じるがゆえに、あるいはイエスを模範として生きようとするがゆえに、この世
の闇から理不尽極まりない迫害を受けるとしたら、それは何を意味するのでしょうか。迫害
する側に悪意があるとしても、それは「私たちの生き方がキリストに似ている」と認められ
ている証拠なのです。これほど名誉なことがあるでしょうか(使徒の働き5章41節)。
12節「喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。
あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」
この「イエスのゆえに迫害される幸い」は、クリスチャンとして最も名誉なことで、際立
つ幸いと喜びを体験できるのだと言われています。その瞬間、未来に天国で受け取る報いは
ひと際豊かに積まれ、そして何千年もの信仰者の歴史の中で、忠実に神に仕えて来た預言者
たちの仲間入りを果たすのです。もちろん、世の中にはクリスチャンの生き方に好意を持っ
てくれる人々も沢山いるのであり(使徒の働き2章47節、5章13節)、必ずしも迫害され
るとは限りません。ただ一つ確実に言えることは、私たちはこの世にあって迫害を恐れてビ
クビク生きる必要は全くないのです。
ですから、私たちの幸いを奪い去るものは何もないのです。ただ、私たちが自らこの幸い
を手放し、この世の「一時的で見せかけの幸福」を求めてしまうことが多々あります。私た
ちは常に「真の幸いとは何か」と自分自身に問いかけなければなりません。そして、真の幸
せはキリストにしかないことを、何度も確認し続ける必要があるのです。