マタイの福音書6章25節~34節

1.収穫感謝

 今年も収穫感謝礼拝を迎えます。古来より農耕社会では「収穫を大自然や神々に感謝する」という祭りや習慣がありましたが、農業以外の産業に従事している人が圧倒的に多い現代日本では、「収穫感謝」は「経済的収入への感謝」と言い換えられるでしょう。しかしこのご時世、素直に自分の収入を感謝できる人がどれだけいるでしょうか。「物価の高騰が続いている」「これから先、生活水準を維持できるのだろうか」「この国の社会保障、健康保険、年金は大丈夫なのだろうか」「子どもたちの教育、学費、未来はだいじょうぶなのだろうか」「一部の富裕層はどんどん豊かになり、貧しい人は増え、格差はどんどん広がっている」という不安が世の中に満ちています。「私たちの収入は一向に増えない」という現実に、感謝どころか不満を抱いている人が大半なのではないでしょうか。クリスチャンもこの世界で生き、世の人々と同じ経済活動をしているのですから、当然同じ状況の中で生活をしています。ともすると、私たちも世の人々と同じように不安と不満を募らせてしまいます。

 厳しい経済環境の2023年、しかし私たちはクリスチャンらしくこの時代を生きなければなりません。今日の聖書個所は、イエスが語られた「山上の説教」(マタイの福音書5章~7章)の一つです。聖書学者の中には「この山上の説教にはクリスチャン生活における基礎的教えが凝縮されている」と解説する人もおり、一説には「初代教会時代ではこの説教にある教えが受洗後の入門的訓練(クリスチャン生活の基礎)で学ばれていたのではないか」とも想像されています。山上の説教の中で「経済的不安・不満に対する姿勢」を教えているのが今日の箇所です。まさに私たちは今こそ、「基本に帰る」必要があるのです。

2.糧の心配

マタイの福音書6章25節「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。」

 「ですから」という出だしは、直前の24節までの流れで、「あなたはもうこの世の価値観(富が一番という生き方)をやめて、真の神を第一として信じたのではありませんか。ですから・・・」と続くのです。ここで使われている「心配」という言葉は、「思い煩う」とも訳せる言葉であり、「心が色々なものに裂かれて乱れること」を意味します。生きるためには、食べ物(飲み物)が必要です。それを買うにはお金が必要であり、お金のためには仕事が必要であり、その仕事をするための健康、体力、能力、精神力も必要です。「今の家計は大丈夫でも、来年はどうなるか」「今年はまだ仕事も健康も維持できているが、5年後はどうなるのか」「今はまだ国の経済がもっているが、10年後はどうなっているか」と心配をしだすとき、私たちはどうすれば安心を得られるのでしょうか。

 また、人が人らしく生きるためには、食べるだけでは不十分です。私たちは動物以上の「自尊心のある存在」であり、その象徴の一つとして「からだを覆う着物」を必要とします(聖書でも「裸」は恥の象徴として用いられることがあります)。また、人は服ならば何でもいいのではありません。特に古代人は現代人以上に、自分が着ている衣服で他人に暮らし向きを知られてしまいます。「ボロボロの服装」は貧しい人と見なされて見下され、「綺麗で高価な服装」は社会的地位が高いとみなされて一目置かれます。「どんな着物を着ることができるか」とは、他人からどんな目で見られているのかを示すものでした。誰だってみすぼらしい格好をして、みじめに見られたくはありません。これは着物に始まり、暮らし向き、学歴、世間体にまで及びます。だから人は生活のためだけでなく自尊心を守るためにも、「恥をかきたくない」と必死で頑張ります。それゆえに、先のことを憂いて心配をするのです。

 山上の説教の当時、イエスの回りに集まった群衆の中には、文字通り「何を食べようか、何を着ようか」と心配していた人々が大勢いました。当時の庶民の経済状況は厳しく、貧富の差は現代以上であり、彼らの姿は私たちにそのまま重なります。イエスは私たちに言われます。「もう心配しないでいい。天のお父様が全てをお与えくださるから。いのちは食べ物よりもたいせつなもの、からだは着物より大切なものでしょう。よく考えてみなさい。今現にいのちが与えられていること自体、お父様が生かし与えてくださっているのだ。今こうして身体が動いていること自体、お父さんがあなたを愛して、あなたに身体を与えてくださっているのだ。だとしたら、いのちに、からだに必要なものも必ず与えてくださるはずでしょう。神はいのちと体を与えておいて、それを維持するものを与えないで『自分で何とかしろ』と突き放すような、そんな無責任で冷たいお方ではない。あなたのお父さんなのだから。」

 私が高校生この頃、大変ショックな事件を聞きました。私の兄が大学4年生の頃、彼の同級生が自殺をしたというのです。就職活動で悩み、希望の職につけそうになくなったのを知って、将来への希望を失い、また無職だと世間体が悪くなるからと自殺をしたというのです。何のために就職して仕事をするのか。お金を得て生活する(食べ物を得る)ため、いのちを保つためです。つまりは、一番大切なのは「いのち」のはずですなのに、「どうやってお金を得るか」「どうやって仕事を得るか」と仕事とお金(食べ物)の方が大切になってしまい、また「自分は周りからどう見られているのか」と着物(世間体)の方が大切になってしまったのです。神抜きで世の中を考える時に、このようなことは起こりえます。自分のいのちやからだが今、どうしてあるのか、それは神がお与えになったからです。だったら、神は、いのちも身体も支えるための必要なものも与えてくださるはずではないでしょうか。

26節「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。」

 空を飛ぶ鳥たちは、その日その時を、懸命にえさを捜して生きています。そしてえさは与えられます。それは天の父が養っていてくださるからです。神は人間を被造物の最高傑作としてお造りになりました。人は動物と違い、頭を使い計画と意志を持って頑張ることができるのです。とてつもなく優れた、しかも神にとっては「尊い子どもたち」である私たちが日々頑張っているのに、天のお父さんがそれに応え、生活の糧を私たちに与え、養ってくださらないはずがありません。

27節「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。」

心配にも種類があります。他人のことを気にかけて、その人の幸福を願う思いから「心配する」のは愛の表れです(「あなたのことなど何も心配していません」と言われれば、冷たく感じます)。しかしここで言われているのは、自分や家族についてのお金、仕事、世間体、将来の心配のことです。そういったことは、天のお父様に信頼せずに心配しても、何の益にもならなりません。心配しても自分の寿命を一秒でも伸ばすことはできないのと同じで、何の解決にもならないのです。

3.装いの心配

28節~30節「なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。」

 山上の説教の舞台となっているガリラヤ地方の丘には、季節によって小さく綺麗な野生の花々が沢山咲くと言われます。その多くは、一日あるいは数日だけ咲いて、後は枯れ、摘みとられて燃料として炉に投げ入れられるのだそうです。私たちがそんな花を見て、「みじめな花だなあ」「何て無意味な花なのだろう。こんな花なら咲かないで、根と茎だけでいいのに」などと思う人はまずいないでしょう。はかないなりにも、その開いた花は美しく、人を楽しませ、心を豊かにし、そして愛される存在です。近年の研究では植物にも感情があるなどという説を聞いたことがありますが、そうであるならば美しく咲いたその花自身も楽しみ、満足感を感じることでしょう。このような花を創造されたのも神です。神はこの一つの花をも愛され、価値ある作品として、このように人を魅了する美しさで装われたのです。古代イスラエルの時代、世界最高の栄華を極めたソロモン王(紀元前10世紀頃)は、王の財力を惜しみなくつぎ込んで最高の技術と美を結集させた衣装をまといましたが、それも所詮は人の手の作品です。神の織なす自然界の美には及びません。その自然界の中でも、生まれながらの私たち人間こそが最高傑作なのです。野のゆりでさえ、美しく咲き、人に感動を与え、「咲いて良かったね」と思われるほどに神が装ってくださるのですから、ましてや最高傑作の私たち一人ひとりに神がよくしてくださらないはずがありません。私たちの人生は、ボロボロの服のような恥と卑屈と劣等感に満ちた人生には絶対になりません。必ず華のある、喜びがあり楽しみがあり、人に何らかの感動を与えるような人生へと、神が装ってくださるのです。

最後の「信仰の薄い人たちよ」とは、イエスが叱っておられるのではなく、厳しい経済状況で信仰が弱っている私たちに「信仰で心配など締め出してしまいなさい」と励ましておられるのです

4.神の国とその義

31節~32節「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。」

 異邦人(真の神を知らない人々)の経済的心配、仕事の心配、世間体の心配、将来の心配にはキリがありません。それらの不安を解消することががんばる動機や判断基準、さらには子どもの教育基準にまでなってしまいます。同様に、心配に明け暮れている私たちは立ち止まり、「私も異邦人のようになっている」と我に返らなければなりません。天の父なる神は、イエスを十字架で犠牲にするほどに私たちを愛してくださっているのです。その父は、私たちの生活と人生の必要を全てご存じであるのですから、心配する必要はありません。

33節「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」

私たちが経済的必要を神に願い求めるのは、大切な父と子のコミュニケーションです。しかし常にそればかりを求めすぎるならば、心もそのことばかりでいっぱいになり、神からの語りかけを聞く(みこころは何かを考える)ことがなくなってしまいます。子ども自身よりも父親こそが「わが子の真の必要」を知っているように、私たちは自分の願いをぶつけるだけでなく、父なる神が示そうとしている「最善」を聞く姿勢が必要なのです。そのためにすべきことこそ、「神の国とその義を求めること」に他なりません。

 「神の国」とは何を指すのでしょうか。やがて私たちが地上を去って後に行く「天国」であり、あるいは未来にこの世が終わると現れる「神の国」だと理解することもできます。しかし、それだけではありません。新約聖書の原語ギリシャ語では、「神の国」の「国」とは直訳すると「王国」であり、「王の支配」を指すのです。「王なる神が支配してくださるように」と求めるのです。まずは「自分の内側」です。私たちが自分でも意識できない「霊」の領域から、感情、思考、発想、関心をはじめ、私たちの内側すべてが神に支配されて「神の国」となることを求めるのです。神の臨在されるところにこそ、平安、希望、喜びが満ちます。そして神の国が広がるように求めるのです。教会が、家庭(夫婦関係、親子関係)が、職場や学校が、人間関係が、神が臨在されるところとなるよう祈り求めるのです。この日本という異教社会(無神論社会)で神の国が広がるように祈り求めるのです。争いと貧困と理不尽に満ちた世界に神の国が広がるように、祈り求めるのです。

 私たちが神の国を祈り求めるならば、次第に、神が支配してくだるために自分自身で具体的に何かをすべきだと示されるはずです。自分の内側が神の臨在で満たされるように願うならば、聖書を開いて真理に触れ、生活でも神が望まれる正しい生き方を求めるようになるでしょう。夫婦や親子関係で神の国を求めるならば、聖書に基づいた家庭を築くように実践するでしょう。人間関係でも、聖書の示す善意と誠実をもって人と接するようになり、機会が与えられれば福音を証しするでしょう。教会では礼拝を守り、そのたて上げや伝道のためにできることをするでしょう。不道徳と無関心が満ちている社会にあっては、「地の塩」として自分ができることをしていくでしょう。これらをまとめて一言で言うならば、この地上で「神の義を求める」ことなのです。

「まず心配事が解決したら、それから信仰の方もちゃんとしよう」といった考えではなく、まずは「神の国と神の義」を求めるのです。神は最善をなし、全ての必要を満たしてくださいます。

5.根拠のある楽観

34節「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」

「明日のことは明日が心配する」などとは、自分の未来のことなのに、何とも他人事のような言い方に聞こえますが、クリスチャンとは本来このくらい楽天的でいいのです。神が与えてくださる「今」を大切にし、今日の「自分がなすべきこと」をして、今日をしっかり生き抜くだけで十分合格なのです。もちろん、神のみこころを求めながら将来の計画を立てることは大切ですが、明日、数年後、数十年後に自分や子どもが苦労するのではないかと不安に駆られているのは、将来を自分の力で何とかできると思い込んでいるからです。そもそも私たちにはそんな力はなく、今も未来もただ神のあわれみで生かされているだけです。

「神の国と神の義を求めているならば、将来も神が全て守ってくださる」という「根拠のある楽観的な生き方」を示すことは、今の日本にあって非常に力強く効果的な証しになるのは間違いありません。