ヨシュア記24章14節~22節
1.「選択」と「未来」
あけましておめでとうございます。これから訪れる日々が皆さんにとってあらゆる意味で実り多いものとなり、後に振り返ってその祝福をしみじみと実感する一年となることを心よりお祈り申し上げます。
「一年」とは時を表すことばです。私たち人間は「時」という流れの中で生きています。まだ訪れていないこれから先の一年後、さらにはその先の未来は、結局は今を生きる私たちの「選択」にかかっていると言えます。意識するにしろ無意識にしろ、私たちは日々の生活で多くの選択をしているのです。健康に悪くても自分が好む食生活を毎日選択し続ければ、未来において「病気」という結果を自ら刈り取ることになります。自制して「健康的な食事」を選択し続ければ、異なる未来が待っていることでしょう。また、たった一日だけ「良い選択」をするのではなく、折に触れて選択し続け、決心を繰り返さなければなりません。
この「選択」の原則は、信仰にそのまま当てはまります。信仰とはまさに「神」を選び取ることなのです。
2.ヨシュア記
紀元前の旧約時代、世界に先立って「目には見えない唯一真の神」を知らされていたイスラエル人たちも、常にこの「選択」を迫られて生きていました。その歴史において、全てのイスラエル人たちが「真の神」を選んだわけではなく、中には「堕落した世の神々(偶像)」を選び、その結果として悲惨な結末を迎えた人々もいました。そのような中でも神の愛と恵みに応え、「真の神」を選び、その決心を保ち続けた人々によって、神の国は前進し続けて来たのです。紀元前15世紀頃に強大な異教国家エジプトを脱出したイスラエルは、リーダーであるヨシュアの指導のもと、豊かな土地カナンに「唯一真の神のみを礼拝する国」を建設しようとしていました(ヨシュア記24章)。この広大な土地カナンには強力な異教民族が定住していましたが、「神に信頼して戦う」という選択をしたヨシュアとイスラエル軍が敵を打ち破って来たのです。これまでの試練を振り返り、そしてそれを乗り越えさせてくださった主への感謝のもと、ヨシュアはイスラエルの民に改めて「選択と決心」を迫ります。
ヨシュア記24章14節「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕え、あなたがたの先祖たちが、あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除き、主に仕えなさい。」
これまでのイスラエル人の歴史を振り返って分かることは、人間は他人に対しても神に対しても実に自己中心で不誠実であり、意志が弱いということです。それに対して神はどこまでも人間に対して誠実であられ、あわれみ深く、不誠実な人間を赦して受け入れて何度もチャンスを与えてくださったのです。そのあわれみは、現代の私たちクリスチャンにも同様に向けられています。ですからヨシュアが迫る「誠実と真実をもって主に仕えよ」という呼びかけは、私たちにも向けられているのです。
反対に「不誠実、不真実をもって主に仕える」とはどんな生き方でしょうか。ヨシュアは民に「あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除きなさい」と戒めています。「大河の向こう」とは「大河ユーフラテス川を越えたメソポタミア地域」であり、それはエジプト地域と並ぶ巨大文明圏でした。「経済的繁栄」や「子孫繁栄」を叶える神々、「病気」「災害」「死」といった恐ろしいものを遠ざけてくれる神々、「奔放な快楽」や「特権階級の支配」を肯定する神々など、それらの地域の偶像は人間の根本にある「欲望と恐れ」の化身だったのです。現代の日本社会の偶像は宗教的な要素を持たなくても、偶像の本質は全く同じです。「真の神の愛と恵み」に信頼することを選ばなければ、人はこの地上の何か(誰か)によって満足(欲望を満たしてくれる)と平安(恐れを遠ざけてくれる)を得ようとします。それが偶像です。一時的にそれを得られても、それは長くは続きません。欲望と恐れがあらゆる原動力になる時、人は「偶像に仕える」ようになるのです。
イスラエル人の先祖も元をたどればかつてはメソポタミアの偶像礼拝者であり、さらにはエジプトで奴隷時代だった頃も偶像を拝んでいた人々がいのでしょう。それはこの世の価値観と道徳で生きていたことを意味します。しかし、それは過去の話です。それを「古い生き方」として捨て去り、ひたすらに「真の神が望む生き方」を追求しなければなりません。表面的に「真の神にのみ仕える」と言いながら、実際はこの世の神々にも仕えているのなら、それは「不誠実で不真実」なのです。
3.自由意志と選択
15節「主に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は主に仕える。」
ヨシュアは真の神に仕えることが絶対的に正しいと断言しながらも、信仰とはあくまでも各個人の自由意志による選択なのだと明言しています。ヨシュアはこれまでに伝えるべきことは全て伝えてきました。今神を選び取れば、そしてこれから先も神を選び続ければ、どのような将来が待っているのか。逆に神を選ばずに、偶像を選べばどのような未来に行き着くのか。その両者の結末を明確にしていました。しかし、その選択には自由を与え、決して強制はしていないのです。神に従うのが嫌なら、自分の好きな生き方をしてよいのです。神は決して人間に強制なさらないお方なのです。
創世の太古、神が人間を創造された時(創世記2章)、明らかに神は人に自由意志をお与えになりました。人間は神の命令の通りに動くロボットではなく、神が人を「愛し合う対象」として、自分の意志を持って「選択する」存在としてお造りになったのです。「愛」とは自由意志があって初めて成り立つのです。「神を愛する」選択もできれば、「神を愛さない」選択もできます。神は人間がご自分に従うということを、強制はなさっておられないのです。神はご自分の意志で、私たち人間一人ひとりを愛することを絶えず選択しておられます。しかしその逆、「全ての人間が、神を愛している」わけではありません。「神を愛しなさい。神に仕えなさい。」という命令はされていますが、その通りにするかどうかは人間一人ひとりの自由意志にゆだねられているのです。もちろん神の愛に応えて、神を愛すれば「最善の未来(途中様々な試練があったとしても)」と「永遠のいのち」が未来に用意されています。神の愛を無視し、神を愛さなければ、たとえ一時的には地上で思い通りの人生を歩めたとしても、最後には罪の刈り取りを自分でし、当然の結末として滅びが待っています。しかし、どちらを選ぶかは、本人の自由意志にゆだねられているのが聖書の最終的な結論なのです。
15節で「伝えるべきことは伝えた。後はあなたがたの選択次第だ。」と結論づけて後、ヨシュアは「ただし、私と私の家は主に仕える。」と告げます。ここには、「たとえあなたがた皆が偶像を選んだとしても、私は主を選ぶ」という揺るがない決心が感じられます。信仰とは多数決によるものではなく、他人の選択を伺って決めるものでもありません。ヨシュアは自分の家(リーダーシップが及ぶ範囲)で「絶対に神を第一にする」という選択をしたのです。
4.選択の覚悟
16章~18節「民は答えた。『私たちが主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にあり得ないことです。私たちの神、主は、私たちと私たちの先祖たちをエジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、そして、私たちの目の前であの数々の大きなしるしを行い、私たちが進んだすべての道で、また私たちが通ったあらゆる民の中で、私たちを守ってくださった方だからです。主はあらゆる民を、この地に住んでいたアモリ人を私たちの前から追い払われました。私たちもまた、主に仕えます。このお方が私たちの神だからです。』」
選択を迫られたイスラエルの民は、「真の神を選びます」と明言します。その根拠は、これまで神が自分たち(親の世代を含む)にしてくださった数々の恵み、神によって乗り越えてきた数々の試練、そして現に今そこで自分たちが生かされているという事実でした。
リーダーのヨシュアは「素晴らしい、よくぞそのように選択した」と褒めるかと思いきや、その反対に厳しいことを告げます。
19節「ヨシュアは民に言った。『あなたがたは主に仕えることはできない。主は聖なる神、ねたみの神であり、あなたがたの背きや罪を赦さないからである。』」
冒頭から「あなたがたは主に仕えることはできない」と否定しているかのように感じられますが、これは民を疑っているのではなく、「聖なる神に従って生きて行くには、相当の覚悟が必要だ」と、覚悟があるかを確かめているのです。一時期の感情や、その場の勢いでは、後に揺らいでしまう危険があります。神の前で誓うということは、そのことばの重みを自覚し、これから確実に起こる試練や誘惑をも覚悟しなければならないのです。
20節「あなたがたが主を捨てて異国の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、主は翻って、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」
ヨシュアは意志の弱い民の未来をある程度予想していました。特に高齢となっていたヨシュアが地上を去って後、民が「外敵の来襲」「農業の不作」などといった試練に陥ったり、逆に経済的繁栄の中で「富で頭がいっぱいで神を忘れていく」という誘惑に陥る中で、そのまま彼らの「恐れと欲望」が異国の偶像礼拝へと結び付くのを危惧していたのです(実際、ヨシュア記の後の士師記では、その懸念が現実になっています)。たとえ一時期的に神を熱く愛して祝福されても、大切なのは「どんな試練や誘惑にも、神を選び取る」という決心を保ち続けるです。
5.確かな証人
21節「民はヨシュアに言った。『いいえ。私たちは主に仕えます。』」
神に信頼し、従っていくことは口で言うほど容易ではないと覚悟した上で、彼らは改めて決心をします。
22節「ヨシュアは民に言った。『主を選んで主に仕えることの証人はあなたがた自身です。』彼らは『私たちが証人です』と言った。」
通常証人とは、誓いを立てた当事者以外の第三者が立てられます。しかしここではあえて、「私たちは主を選び取ります」と誓った民自身が証人となっています。自分の口でことばとして誓ったことは、記憶から消し去ることはできません。いつか誘惑や試練に直面する時、神ではなく世の何か(誰か)にすがろうとする時、神に信頼するのが無意味に思える時、神よりも他のものが大切に思える時も、そして実際に神から離れてしまった後も、人は「主を選び主に仕える」と誓った事実が記憶として頭に残っているのです。それに蓋をしたとしても、心のどこかに責めを覚えたり、虚しさを感じることがあるでしょう。結局は自分自身が証人なのです。そしてそのような「内なる声」をも無視し続ける選択をし、神に背を向け続ける選択を続けるならば、その先の未来にはヨシュアが警告した悲惨な結末が待っているのです。
クリスチャンであれば誰もが、洗礼を受ける時にことばによって誓いを立てています。「キリストによって罪が赦され、永遠のいのちが与えられることを信じます」「キリストのしもべとして生きます」「礼拝を守り、証しの生活をします」「キリストのからだなる教会の一器官となります」それは誰かに強制されたのではなく、自ら自由意志をもって誓ったのです。この世には様々な生き方がある中で、キリストに信頼し従う生き方を選んだのです。それはある一時期だけの選択ではありません。人生の大切な節目々々で、信仰が揺らぐ厳しい困難の中でも、快楽や復讐といった強烈な誘惑がある中でも、信仰生活がマンネリ化して飽き飽きしている中でも、祈っても現実が変わらない現実の中でも、神よりも世の何の方が大切に感じていく中でも、日々「キリストを選び取る決心」を繰り返しし続ける必要があるのです。キリストを選び取っても、確かに道中うまく行かない日々があるでしょう。しかしその行き着くところには、確実に祝福された未来があるのです。
この2024年がどのような年になるか、そして一年一年の積み重ねである人生がどのようになるか、それは全て私たち一人ひとりの自由意志による選択と決心にかかっているのです。