1.神の目から見た平等
マタイの福音書の今日の聖書箇所の直前の19章では、金持ちの青年が財産を捨ててイエスに従うことができずに去っていったことが記されています。それを見た12弟子のリーダーであるペテロは、「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従ってきました。それで、私たちは何をいただけるのでしょうか。」と得意げにイエスに尋ねます(マタイの福音書19章27節)。明らかに、去っていった金持ちの青年や12使徒以外の弟子たちと自分たちを比較しているのです。「自分たちはこれだけのことをしてきたのだから、もっとイエス様に愛されて当然だ。他の人たちよりももっと大きな祝福を受けて当然だ」といった思いでしょう。それに対してイエスは、報いが与えられることを約束されますが、それに付け加えるかのように「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります」と意味深なことを言われます(同19章30節)。人間の目には、不公平に見えることが多々あるといった意味でしょう。その意味を具体的に示そうと、イエスは一つのたとえ話をされます。
2.愛に満ちた主人
マタイの福音書20章1節「天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。」
そもそもここに登場するぶどう園の主人の目的は何だったのでしょう。当時のごく普通のぶどう園経営者のように、ぶどうをできる限り沢山栽培して、雨期に入る前にくまなく収穫し、多くの収入を得て財産を増やすのが目的だったのでしょうか。その目的のために、市場にたむろしていた男たちを労働者として集めたのでしょうか。そうではないはずです。そんなありきたりの話ではありません。この例話の中でぶどう園の主人が表しているのはイエスです。であるならば、彼が市場で労働者たちを雇うのは、普通のぶどう園所有者とは目的が違うはずです。このぶどう園の主人は、イエスがそうであるように、愛に満ちている人物でした。自分の隣人を自分自身のように愛しているのです。そんな彼が特に心を向けていたのが、市場でたむろしている人々でした。誰からも雇ってもらえない、誰からも必要とされてなく、何もすることがなく、時間を持て余し、目的もなく一日が過ぎていく人々でした。そんな彼らに、自分たちが必要とされていると感じて欲しい、働く喜びを味わってほしい。労働時間や成果は関係ありません。ただ、価値ある労働をして、その日を有意義に生きて欲しい。ちなみに、ぶどう園の主人がイエスであるならば、ぶどう園は神の国を指していると言っていいでしょう。この例話で扱われている「1日」は、人生を表していると考えられます。「神の国には、あなたが必要なのだ。神の国のために仕えてくれ。神の国の拡大のために働くという、明確な目的をもって今日という一日を、あなたの人生を生きてほしい」という思いをもって、ぶどう園の主人は朝早く、市場に出かけたのでした。
2節「彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。」
当時のユダヤの労働時間は、朝の6時頃から夕方の6時頃までの約12時間であったと言われています。一日の最も早い段階で、この労働者たちは雇われました。一デナリは当時の平均的な一日の賃金です。しかしぶどう園の主人にとっては、この一デナリは単なる報酬ではありません。自分のために働いてくれた労働者たちへのねぎらい、目的をもって一日を生きる労働者たちへの愛に満ちた贈り物であったはずです。
このたとえが示す具体的な情景はどのようなものでしょうか。一日の内で最も早い段階で、つまり人生の内できわめて早い段階でイエスに出会い、神の国の働きに招かれ、それに応えます。人生の生きる目的、仕えるべきお方が、人生の早い段階で明確になったのです。何と素晴らしいことでしょうか。何よりイエスご自身がそれを喜んでおられます。地上での人生を終えた後、あるいは世の終わりの時にイエスが再び雲に乗って地上においでになるときに、その報いが与えられます。報いとして与えられるのは、神の愛に満ちた永遠のいのちです。もちろん、自分がこの地上での生涯で払った犠牲に対しては、神は天の財産をもって報いてくださいますが、何よりもまさる最高の報いは、神に愛されることそのものであり、そして永遠のいのちなのです。
3節「彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。」
無意味に一日を過ごしている(生きる目的が分からず生きている)、誰も雇ってくれない(誰からも必要とされていないと感じている)人々はいないか。ぶどう園の主人(イエス)は再び市場(この世)を見渡します。朝から少し時間が経って9時頃(人生がある程度過ぎた頃)何もしないで、むなしく立っている人たちを主人は見つけました。
4節「そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』」
ぶどう園の主人(イエス)との出会いが、彼らの一日(人生)を変えます。「ぶどう園はあなたを必要としている(神の国はあなたを必要としている)のだ。さあ、行って仕えなさい。相当の賃金を払うから。」愛に満ちた主人に仕えることそのものが、恵みなのです。主人に必要とされ、価値ある働きをさせてもらえることそのものが恵みなのです。賃金については触れてはいませんが、主人の心の中でははっきり決まっていました。一デナリです。イエスが彼らに与えるは、神の愛、そして永遠のいのちです。それは朝一番に雇った人々(人生で最も早い段階でイエスに出会った人々)と同じです。なぜなら、イエスは全ての人を愛し、同じ恵みを授けたいと願っておられるからです。
5節「彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時頃にも出て行って同じようにした。」
ぶどう園の主人(イエス)は、繰り返し市場(この世)を見渡します。何もすることがないむなしい一日(むなしい人生)を送っている人はいないか。それぞれ一日(労働可能な時間)が半分進んだ段階、4分の3が進んだ段階で、人々は主人に出会います。人生に置き換えれば、中年以上といったところでしょうか。しかしいつ雇われたか、イエスに出会ったかは、他者と比較するものではありません。「こんなに遅くに雇われたのですから、大して働けないではないですか」「こんなに遅くに信仰をもっても、たいしてイエス様にお役に立てないではないですか」と考える必要はありません。いつイエスと出会ったかよりも、イエスと出会えたこと、愛に満ちたイエスに仕えるようになれたこと、神の国のために仕えるようになれたことそのものが、真の幸いなのです。もちろん、報酬は主人の心で決まっていた、一デナリ、「愛に満ちた永遠のいのち」です。
6節「また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』」
当時のイスラエルで、普通のぶどう園経営者は、こんなことはまずしないでしょう。イエスをたとえるぶどう園経営者だから、このようなことを言うのです。「なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか」「なぜ真に生きる目的もなく、むなしく人生を過ごしてきたのですか。」時間は五時、もうすぐ一日(労働可能な時間)は終わります。人生に置き換えれば、晩年といったところでしょうか。
7節「彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』」
「自分など誰も雇ってくれない。」「私など、誰が必要としてくれるでしょうか。」人間が晩年になって、よく口にすることばの一つだと聞いています。そしてそれに続くことばは、「私はこの年になって、何のために生きているのか」だそうです。それは孤独に満ちています。しかしそのような人に向かって、主人(イエス)はためらいもなく言います。「あなたがたもぶどう園に行きなさい。あなたがたの働きを、私は必要としているのだ。」「神の国には、あなたの働きが必要としているのだ。」「もう一時間しか働けないではないですか。」「もう人生の大部分は過ぎてしまい、残された年月はそこまで長くはないではないですか。」そんなことを気にしているのは本人たちだけです。その残された日々を、真に有意義に生きてほしい。真に価値ある働き、永遠に残る働きのために仕えて欲しいと、イエスは願っておられるのです。
3.報いの時
8節「夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』」
朝の6時から午後5時に至るまで、様々な労働者が雇われました。労働時間はそれぞれです。しかしこの事業で最も大切なのは、どれだけ収穫高があがったかではなく、主人の心です。主人の気持ちが、労働者一人ひとりに伝わっていたかどうか。そして、このような愛に満ちた主人のために働く恵みを、一人ひとりが実感していたかどうか。有意義な一日を過ごせたと、一人ひとりが心から思えたかどうか。最後に来た者たちから、賃金が支払われ始めます。
9節「そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。」
主人の愛が込められた一デナリが渡されます。「たった一時間しか働いていないのに、こんなにいただいていいのですか。」彼らが受け取った一デナリはもはや報酬ではなく、本来受けるにふさわしくない者が、相手の好意によって与えられる「恵み」です。彼らは主人の思いを、誰よりも理解したことでしょう。「あなたは私たちのむなしい一日を最高に有意義にしてくださったばかりか、こんな恵みまで与えてくださるのですか。私たちはとてもそれに見合うことなどしていないのに、ここまで私たちを愛し、祝福してくださるのですか。」主人の心とその恵みを最も理解できるのが、この5時ごろに雇われた者たちだったと言えます。イエスが今日の聖書箇所の最後の「後の者が先になり、先の者が後になる」とは、まさにこのことを示しているのです。最後に雇われた者、ぶどう園の主人のために多くの働きをしていない者(できなかった者)こそが、主人の愛と恵みを悟るのに最も近いというのです。イエスのために、何もしていない(できない)人こそが、こんな自分をどれほどイエスが愛してくださっているか、こんな自分が永遠のいのちというどれほど大きな恵みをいただいているかを悟るのに最も近いというのです。
五時ごろに雇われた者たちから始まって、聖書本文には書かれていませんが、三時ごろ、十二時ごろ、九時ごろに雇われたそれぞれの労働者が、一デナリずつ受け取っていったはずです。それぞれ労働時間は3時間、6時間、9時間と増えていきます。彼らが文句を言ったことは書かれていません。中には不満に思った人もいたかもしれません。労働が長ければ長いほど、収穫した成果をあげればあげるほど、「自分はこれだけのことをしたのだ」という思いが湧いてくるのが人の性です。そして主人からの一デナリが恵みであることを悟らず、自分のした働きに対する報酬だと思うようになってしまうのも人の性です。そして労働者の間で、互いに比較してしまうのも人間の自然な思考パターンです。
10節「最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。」
この世の原則からすれば、より多く働いた者は、より愛され、より評価され、より多くの報酬を与えられるはずです。しかしこの主人には、その原則は当てはまりませんでした。主人の心が伝わっていない「最初の者たち」は、不平を言います。
11節~12節「彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』」
これをイエスと私たちの関係に置き換えたらどうなるでしょうか。「神の国のために長年にわたって仕えてきた、イエス様のために犠牲を払い、忍耐してきた私たちと、大して仕えていない、大して犠牲など払っていない彼らが、同じようにイエス様から愛されるだなんて、納得できない。そんなの平等ではない。」と言ったところでしょうか。
しかし不平を言うこの労働者たちは、最も大切なことを忘れているのです。それは、これほど愛に満ちた「ぶどう園の主人」に出会えたことそのものが、とてつもない恵みなのです。無駄に、むなしく一日を過ごすことなく、「焼けるような暑さを辛抱した経験」も含めて今日というその日をこの主人ために働くことができたことそのものが恵みなのです。そして一日の最後に、主人の心のこもった銀貨一枚を受け取ることで、恵みは完成するのです。
同様に、私たちにとっての宝とは、イエスという愛に満ちた主に出会えたことです。神の国の働きを委ねられ、自分のことばで、ふるまいや態度、表情、生き方でキリストを証しするように努め、キリストの教会をたて上げるために地道に仕え、伝道に参加する。時には犠牲を払う経験をし、時には迫害に直面して辛抱し、家族や友人にキリストを伝えても信じてくれないというつらい経験をする。嬉しい時はもとより苦労することもあったそれら全ての経験が、恵みなのです。そして私たちのクリスチャン人生の最後に、「よくやった。良い忠実なしもべだ」という温かいおことばをかけられ、そして愛に満ちた永遠のいのちをいただき、恵みは完成するのです。
4.気前の良い神
13節「しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。』」
イエスを信じた時、確実に与えられると約束されたのは永遠のいのちです。どんな人生を送るのか、どんな目に見える祝福が与えられるのか、どんな苦労をするのか、それらは明らかにはされていません。それらは人それぞれなのです。確かなのは、イエスが永遠に愛してくださるということ、そして最後には永遠のいのちを与えてくださるということです。それなのに、「私はこんなに苦労したのですよ」「どうしてもっと目に見える祝福をくださらないのですか」とイエスに言いがかりをつけるのは、何様でしょうか。
14節「あなたの分を取って返りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。」
イエスの目には全ての人が尊く、イエスは全ての人を平等に愛しておられるのです。働きの多さにかかわりなく、同じ恵みを与えたいと、イエスは願っておられるのです。
15節「自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。」
神の気前の良さは、人間の目には時に不公平にすら思えるほどです。十字架におかかりになったイエスの隣で同じく十字架刑に処さられていた強盗が、死ぬ直前にイエスを信じて救われました(ルカ23章39節~43節)。かたや青年時代にイエスに出会ったパウロは、その後自分の人生をイエスにささげ、およそ30年に及ぶ献身の人生を歩み、数えきれないほどの試練に直面し、度重なる迫害に耐え、数々の教会開拓をし、犠牲を払って信徒たちを育て、クリスチャンからの批判にさらされる中でも忍耐をもって仕えました。そして最後は殉教の死を遂げます。このパウロと、先ほどの死ぬ直前で救われた強盗が、同じ天国に入るのです。同じようにイエスから愛されているのです。こんな気前の良い主人がいるでしょうか。これがキリスト教の神なのです。これが恵みの世界の真理なのです。
16節「このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」
イエスのために、何もしていない(できない)人こそが、こんな自分をどれほどイエスが愛してくださっているか、こんな自分が永遠のいのちというどれほど大きな恵みをいただいているかを悟るのに最も近いということが起こりえます。反対に、多くの働きをしてきた(多くの働きができる)人が、自分のしてきたことを誇るなら、自分と他者を比較して何もしていない人意を裁くなら、それは永遠のいのちという大きな恵みを忘れている状態、心は神から遠くなっている状態なのです。
5.5時からの人
私が2013年に、東日本大震災被災地復興支援ボランティアとして福島県に行ったときのことです。現地ではキリスト教関係の多くのボランティアの方々との出会いがありました。その中の一人に、牧師であり、プロの歌手であられた小坂忠先生と出会いがありました。小坂先生は毎月被災地を訪問し、肉体労働のボランティアだけでなく、避難者の方々に歌を聞かせ、励ましておられ、その献身の姿に私は感銘を受けていました。そんな中で小坂先生と食事をしたとき、私が「どうして日本全国のクリスチャンはもっと被災地に来ないのだろうか。もっと多くの人が来て、被災者の方々を励ますべきだ」と言った時、小坂先生は私にこのような質問をしました。「中上君。君はマタイの福音書のぶどう園の主人と労働者のたとえの話を知っているよね。朝6時から働いていた労働者から、9時、12時、3時、5時。君だとしたら、自分がどの時間に雇われた労働者だと思うかい。」私は少し考えてから、「そうですね。私は19歳の時にクリスチャンになったから、朝6時からではないですね。まあ、9時くらいですかね。」と答えました。すると小坂先生は、静かに、しかし力強く言われました。「僕は27歳でクリスチャンになったけどね、でも、いつも自分は夕方5時に雇われた労働者だと思っているのだよ。27歳でも、それでも自分はイエス様を信じるのが遅すぎたと感じているくらいなのだ。でもこんな自分を雇ってくれた、神の国の働きに加えてくれたイエス様にいつも感謝しているのだ。だから、他の人がどれだけの働きをしていたか、していないかなんて、全然気にならないのだ。」
小坂先生のことばは胸が私の胸に刺さりました。それ以来、私も「自分は5時からの労働者」だと思うようになりました。ささやかなことしかできない、あるいは、何もできないような私たちです。そんな私たちを神の国の働き人として必要としてくださるイエスに、そして永遠のいのちというとてつもないを与えてくださるイエスに、感謝してお仕えしましょう。
